老子の言葉をわかりやすくお届けします

徳の高い人ってどんな人?

「徳が高い」とか「徳が低い」といった表現を使うことがありますよね。
「徳が高い=人徳者=人に尊敬される人」
…というぼんやりしたイメージでこの言葉を使っている方も多いのでは?

 

老子によれば、「徳がある人」というのは、
ことさらに“徳”を意識することもないのだといいます。

 

すなわち、人から尊敬されようとか、栄誉が欲しいとか
名声が欲しいとか財産を蓄えようとか…
そういった私利私欲からフリーであり続けられる人こそが
いわゆる「徳のある人」というわけです。
このような老子の考え方は、次の言葉によく表されています。

 

「上徳不徳、是以有徳」
(上徳は徳とせず、是を以て徳あり)

 

徳の高い人は徳を意識することがない、だから徳から離れないのだ。
…ちょっとピント外れかもしれませんが、
本当のお金持ちが、あえてお金に執着しないのと似ているかもしれません。
「欲しい!欲しい!!」オーラを出していても手に入らず、
集まるところには自然と集まってくる。

 

お金も徳も、案外似たようなものなのかもしれませんね(笑)。

己への執着を断ち切ればラクになれる

徳のある人の逆は…徳の低い人ですよね。
老子によれば、
「徳の低い人は徳をなくすまいとしてしがみつく。→だから徳が身につかない」
この教えは、「下徳は徳を失わず、是を以て徳なし」という言葉で残されています。

 

さきほどと同様にお金の動きに重ねてみると、
確かに、自分の私利私欲に執着して財産を手放さない人、
奉仕的でない人は、いずれは手にしたものを失ってしまうかもしれません。
実際、大金を手にした人の多くは、
ライフワークのように募金や献金に明け暮れているそうですから(笑)。

 

どのようなものであれ、他の人が望んでも手に入れられない
幸運が自分に回ってきたのは、たまたま“運”の巡り合わせが良かったから。
そう考えて、その幸運を独り占めしたりせずに潔く手放す覚悟がある人こそ、
真に“徳のある人”と言えるのではないでしょうか。

 

ともすれば人は、ラッキーなことは自分だけで独占したいと思うもの。
手にしたものは「手放したくない」「ずっと独占していたい」と望む生き物です。
しかし、そんな時こそ、思い切ってその手から解き放ってみてください。
自分自身もまた、執着やプレッシャー、あらゆるものから解き放たれて
安らかな心境に至ることができるものです。

“道徳”ってどんなもの?

小学校時代、「道徳」という授業がありましたよね。
「道徳って老子と関係があるんだろうか?」
今になって振り返ってみると、ふと、そんな疑問が浮かびます。

 

「道徳」の意味を辞書で調べてみると、次のように記載されています。
(引用:「デジタル大辞泉」)

 

1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、
守り従わねばならない規範の総体。
外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、
自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。

 

2 小・中学校で行われる指導の領域の一つ。
昭和33年(1958)教育課程に設けられた。

 

3 《道と徳を説くところから》老子の学。

 

時代と共に学校教育の在り方も大きく変化していますが、2013年現在、
道徳教育は「学校の教育活動全体を通じて行うもの」であるとされていて、
教科としては存在していないのだそうです。

 

確かに、思いやりや物事の善悪は、教科書を使って教えたからといって
簡単に身に付くものではありませんよね。
極端に言えば、学校であれ社会であれ、人間活動の全てにおいて
私たちには須らく「道徳的であるべき」ことが求められているわけですから…。
これは、あえて教科として教えるのではなく、
親や教師の日常的な“姿勢”を示して教えるものであるべきでしょう。

 

※ちなみに、小学校、中学校、中等教育学校の前期課程には
道徳の時間が35単位時間/年設けられており、
だいたい1校時/週割り当てられているそうです。