老子の言葉をわかりやすくお届けします

味気ないものにも目を向けよ

老子の思想を理解する上で避けて通れないのが、「道」という概念。
便宜上、「万物の根源」とか「真理」と訳されることが多いものの、
実はそれも正解であって正解ではない…!
そもそも老子の言う「道」とは形すらないものであり、非常に抽象的な概念。
それを、老子が意図した通りに理解できる人は少ないのではないでしょうか。

 

老子に言わせると、道とは「つまらなくて味気ないもの」であり、
人々を興奮させるような華やかさもないもの。
…と言われてもちょっとイメージしにくいでしょうから、
わかりやすい例を挙げましょう。

 

例えば、ここに数冊の本があるとします。
グルメ、音楽、ファッション、旅行、温泉、芸能、アダルト。
いろんなジャンルのものの中に、ポツンと東洋哲学の本を混ぜておきます。
「さあ!興味にある本を選んでください」
と言われた時、哲学書を選ぶ人はどれだけいるでしょうか?
おそらく、大多数の方は

 

「なんだか難しそう」「哲学って理屈っぽいし」

 

…と、もっときらびやかで華やかでわかりやすい雑誌を選ぶのではないでしょうか。

 

確かに、音楽や食事、洋服…
どれも、私たちを楽しませてくれるものばかりです。
しかし、それはごく一時のこと。
楽しい時間が過ぎた後の、
「なんだかむなしい」孤独感をどうすれば良いのか…。

 

「また新しい楽しみを探せば良いじゃん!」
と思われるかもしれませんが、
常に「何か物足りない」とう気持ちを抱えていきることは
「心の平穏が保たれている」と言えるのでしょうか?

 

そこで老子は、あえて「味気ないもの」に目を向けなさいと教えているのです。

「道」を心に持って生きる

華やかで楽しいことばかり追い求め続ける人生。
一見、幸せそうに見えますが、その反面、
「常に何か足りない」という物足りなさを抱えて生きることになります。

 

その「何か」は、どのようなものなのか?

 

老子曰く、それこそが物事の真理=「道」なのです。

 

「執大象。天下往。往而不害。安平大。
楽與餌。過客止。道之出口。淡乎其無味。
視之不足見。聽之不足聞。用之不可既。」

 

(大象を執れば、天下往く。往きて害あらず、安平太なり。
楽と餌とは、過客も止まる。
道の言に出だすは、淡乎としてそれ味わい無し。
これを視るも見るに足らず。これを聴くも聞くに足らず。
これを用いて既すべからず。)

 

大いなる道をしっかり心得ている人は、どこに行こうとも害に遭うことがない。
心も平穏で大安心である。
美しい音楽と美味しそうな食事には、旅人でさえも足を止めす。
しかし、道行く人に「道」を言葉で呼び掛けても、
つまらなくて味気無いので誰も足を止めず、通り過ぎてしまう。

 

このように「道」というものは、見ようとしても見えず、
聞こうとしても聞こえないものである。
しかし、道を心に持って生きれば、無限の働きをしてくれるものである。

「道」は私たちの中にある

老子の言葉はどれも、私たちに

 

「本当に大切なものは何か?」

 

というクエスチョンを突き付けてきます。

 

美しい音楽や美味しいそうな食事があれば、それで満足ですか?
今まで素通りしてきた“味気ないもの”の中にこそ、
あなたが本当に求めているものがあるハズ…。

 

勘違いして欲しくないことは、老子はなにも、
「哲学を勉強しなさい」と教え諭していたわけではないということです。
老子の言う「道」とは、この世界の真理であり、
大自然の中や私たちの心の中にあるもの。(「良心」と言う人もいます)
「これが道だ」とは決して断言できないものですから、ひょっとしたら、
人によって全くことなるものなのかもしれません。

 

では、その「道」を得るにはどうすれば良いのか?
まずは、自分の心の声を聴くことです。
TV、雑誌、ネット…あらゆる情報に囲まれている私たちは、
自分の一生を左右する決断の場面でさえも、
その答えを外から入ってきた情報にゆだねてしまうことがあります。
そうではなくて、全ての情報をシャットアウトして、自分の中に入り込むのです。

 

見聞きした情報によって植え付けられた価値観や先入観からフリーになった時、
自分の心には何が浮かんでくるのか?
自分は、本当はどうしたいのか?
そこで見えてくる“ありのままの声”こそが、その人にとっての「道」なのかもしれません。
「道」とは、他人の中に求めたところで見えてくるものではないのです。