老子の言葉をわかりやすくお届けします

油断するから失敗する?

何につけても、最初は「失敗したらどうしよう」と、
おそるおそる慎重にコトを進めるもの。
それが、だんだん慣れてくると、「まあ、このくらいなら大丈夫デショ」
と手を抜くようになってきます。

 

老子に言わせれば(いや、老子に言わせるまでもなく?)
この油断こそが失敗の元。
作業がルーチンになると、そこで軽微な見落としなどが出てくるものです。
そして、その小事が大事につながってしまうという…。
だからこそ老子が言うように、
常に初陣の心づもりで物事に当たることが大事なのです。
物事が終わりに近づけば近づくほどに、
最初の頃のような緊張感や慎み深い気持ちを忘れてはいけないのです。

 

「油断大敵」とはよく言ったものですね!

常に初陣の気持ちでいれば負けない?

勝負ごとは、油断こそが勝敗を左右する「本当の敵」。
それは、老子の次の言葉によく表れています。

 

「愼終如始、則無敗事」
(終わりを慎むこと始めの如くなれば、即ち敗事なし)

 

物事の仕上げの段階になっても、慎み深い気持ちを忘れてはならないよ。
そうすれば、実力以上の力が発揮できるものだ。(=負けることはない)

 

…これはつまり、物事には「常に初陣の心構えで臨めよ」という戒め。
最後の詰めの部分こそ、始まりの時のように慎ましやかにしていれば
失敗することはないんだよ、ということです。
実際、詰めの一手というのは勝敗を大きく左右するものですからね。

老子が本当に言いたかったことは?

ちなみに、初陣の心構えでいることの大切さを説いた「愼終如始…」の言葉は、
「老子」第64章のごく一部分。
全体としては、老子は次のようなことを言っています。

 

「安定は維持しやすく、兆候も見えないうちなら対処しやすく、
基礎が固まる前には壊れやすく、わずかなものは消えてなくなりやすい。
有為に発展する前に処置し、混乱が起きる前に手当しておく。

 

周囲が何mもあるような大木も、生まれたときには毛先ほどのか弱さで、
何層もの段を積み重ねた立派な台も、始めは一つの土嚢しかなく、
千里の旅も足下の第一歩から始まる。
やってしまうと失敗し、制御しようとしても失敗する。

 

 

そこで聖人は、やらないことで失敗を避け、制御しようとしないことで失敗を免れる。
世間の指導者が民の支配に当たるとき、
ほとんど達成しているにもかかわらず失敗する。
最後の詰めこそ始まりの時のように慎ましやかにしていれば
失敗することはないのに。

 

だから、聖人は欲を持たないことを求め、希少な宝を貴重とせず、
学ばないで済む方法を学び、大衆が通り過ぎた質素な暮らしに戻って行く。
そして、あらゆる物が自律的に活動できるように助けながら、
それでいて何もしないのだ」

 

「なにやら抽象的でよくわからん!」
という方も多いかもしれませんね。
そこで、これをざっくりと解釈してみると…

 

・何事も、小さいうちは潰れやすい
・しかし、大きいことは小さいことの積み重ねでできている
・だから、終わりに近づいた時も、最初(潰れやすかったとき)と同じように慎重に!
・そうすれば失敗することはないハズ

 

逆に言えば、最後の最後で失敗してしまうのは欲が出るから!
最初は謙虚だったのに、いつからか慢心してしまうからです。

 

・だから、天下を取っても欲を持たないことだ
・庶民を指導してやろうなどと思わず、民衆の自律心にまかせておきなさい
・そして自分も質素な暮らしに戻りなさい

 

…すなわち、まだ天下を取っていなかった頃(いわゆる「駆け出しだった頃」)の
初々しい気持ち、「初陣」の頃の気持ちを忘れちゃいかんよ!
天下を取ったからといって、イイ気になって欲を出しちゃいかん!
あとは、民衆のあるがままにまかせた「無為自然」な政治をしていきなさいよ。
それを助けるのが、為政者の役割だよ…ということでしょう。

 

「なにもしていないようでいて、実はしっかりなすべきことをしている」
ここでも、最終的には老子の理想のリーダー像につながっていきますね。