老子の言葉をわかりやすくお届けします

「恐れ」は自分自身が作り出すもの

神様や仏様の存在を信じる・信じないは別として、
何かやましいことをしてしまった時には、誰しも

 

「何か悪いことが起こるんじゃないか」

 

と、漠然とした不安を抱くものでしょう。

 

あのヒットラーでさえも、夜になると「奴が来る」と言いながら震えていた
…そんなエピソードもあります。

 

逆に、自分の良心に従った生き方をしていれば、何ら恐れるものはないでしょう。
それは、老子も認めるところ。
「良心に従った生き方をしている人間は、鬼神でさえも害することが出来ない」
…という言葉を残しています。

 

これを逆に解釈すれば、鬼神を恐れる気持ちがあるのは、
「鬼神に害されても仕方がない行い」をしてしまったということですよね。
心にやましいことがあるから、目には見えないものを恐れるようになるわけ。
言い換えれば、「恐れ」を生み出すのは、自分自身だということなのです。
「疑心暗鬼」とはよく言ったものですね(笑)。

 

では、そのような恐れを生み出さないためにはどうすれば良いのか?
老子は、「自分自身を煮詰めることだ」と言っています。

 

これはどういうことなのでしょうか?

不安になるのは自分が煮詰まっていない証拠!

「治大國、若烹小鮮。
以道莅天下、其鬼不神。
非其鬼不神、其神不傷人。
非其神不傷人、聖人亦不傷人。
夫兩不相傷。故徳交歸焉」

 

(大国を治むるは、小鮮を烹るが若し。
道を以って天下に莅めば、その鬼も神ならず。
その鬼の神ならざるに非ず、その神も人を傷わず。
その神も人を傷わざるに非ず、聖人もまた人を傷わず。
それふたつながら相い傷わず。故に徳こもごも焉に帰す。)

 

大きな国家を治める時は、小魚を煮る時と同様にして
形が崩れるような刺激を与えないように、
静かに煮詰めていくことが大切。

 

道徳で天下を治めれば、鬼も干渉することができない。
なぜなら、鬼の霊力が落ちるからでは無く、
(道徳に生きる)人は霊力の干渉を受けないからだ。
鬼の霊力だけが人を傷付けることが出来なくなるのではなく
聖人もまた、人々に干渉することはない。
つまり、鬼も聖人も、(道徳に生きる)人に干渉することはない。
だから道徳の実践の恩恵というものは、
色んな意味で人々に影響を与えるのだよ。

 

…老子のこの教えのポイントは、「治大國、若烹小鮮」の部分です。
これを自分自身に当てはめてみると、
「大きなことを成し遂げようと思うなら、まずは、小魚を煮るように静かに、
じ〜っくりと自分を煮詰めていきなさい」ということ。

 

例えば、「難関」と言われる大学を受験すると仮定しましょう。
この時、「試験に合格できるだろうか」「落ちるかもしれない」
…と不安や恐れを抱くのは、あなたの心がそうさせているということ。
すなわち、「やれることはやりきったのだから大丈夫だ!」と思えないのは
どこかしら“やましい気持ち”“良心がとがめる気持ち”があるからだと考えられます。

 

「本当は勉強するべきだった時にゲームをしてしまった」
「ストレス発散で遊び過ぎて、ラストスパートがかけられなかった」

 

…つまり、やれるハズのことやれなかったことが
良心の呵責(罪悪感のようなもの)となり
それが恐れや不安を生み出しているというわけ。
これを避けるためには、とことん自分を煮詰める=努力するしかありません。

自分をとことん煮詰めてみよう

老子の言葉を借りていうならば、不安を感じるということは
「自分で自分を煮詰める」作業が不十分だということ。
目標が大きければ大きいほどに、小魚を煮るような忍耐強さで
自分自身を煮詰めていかなければいけないのです。

 

ここで大事なことは、慌てないということ。
老子がナゼ、ここで「小魚」を例に挙げたのか?
それは、小魚を急いで煮詰めると
形が崩れて目茶目茶になってしまうからです。

 

これはすなわち、焦らず無理せず、マイペースに行けよ!という教え。
慌てて短時間で煮詰めようとすれば、
ペースが崩れてかえって逆効果になってしまいます。

 

じっくり時間をかけて自分を煮詰めていける人は、
好機を逃すこともありませんし、
他人に影響されてタイミングを誤ることもないでしょう。
「鬼神」のような姿なきものを恐れることもありません。

 

何かを成し遂げようと思った時、または、漠然とした不安感に襲われた時は、
まずは自分自身としっかり向き合うこと!
そうすることで、むやみに他人に責任転嫁をすることもなくなりますし、
ハッキリと目に見えないものに対する恐れもなくなっていきます。