“智者”と“学者”って?
老子の言葉には、「智者」と「学者」の二つの言葉が登場します。
私たちの一般的な感覚からすると、学者といえば、
○○大学の教授だとか、名誉教授だとか、
そこまで偉くなくとも、准教授とか助教とか。
学問に携わる人で、なんらかの肩書きを持った人を思い浮かべますよね。
肩書き…、要するに、「ステイタス」です。
しかし、ステイタスがある人が、人間的に優れているかと言えば
必ずしもそうとは言えません。
部下(この場合は大学院生)の実績を自分のもののようにひけらかしたり、
知識に胡坐をかいて、他の人を見下したり。
アカデミックハラスメントが横行している研究室の教授は、
得てして「智者」とは言えないレベルの人が多いようです。
つまり、学者=智者ではないということですよね。
老子もまた、「学者」と「智者」は異なるものとして扱っています。
そこで気になるのは、「智者」が一体どんな人物なのかということですが…。
道に従う人こそ、真の「智者」
「智者学者にあらず、学者智者にあらず」
という言葉から分かるように、老子の中でも、
智者と学者は明確に区別されていました。
すなわち、学者のような高いステータスを持っているからといって、
その人が本当に優れているとは限らないというのです。
では、「智者」とはどんな人か?というと…。
そこで出てくるのは、老子思想の中核である「道」です。
道、すなわち、
万物の根源たる「自然の法則」に従って生きている人こそ、真の「智者」である
…というのです。
確かに、自然の法則を知っている人、あえてそれに逆らわない人は、
妙な欲を出して失敗することもありません。
人に接する時も、その人が自然から授かった「ありのまま」を
そのまま受け入れることを心得ているので、
争うことも、怒ることもありません。
これは、知識が豊富=「学がある」こととは違いますよね。
学があっても、自然の法則を知らない人、
それに従った生き方ができない人は「智者」とは言えないのです。
学ぶほどに智者から遠ざかる?
老子曰く、「道という自然の法則に聡い者こそが真の智者である」。
しかし、智者だからと言って、学問的な知識が豊富か?といえば
決してそうではありません。
逆に、学問に通じていても、自然の法則に従った生き方をしているか?
と言えば必ずしもそうではありませんよね。
だから老子は、
「智者は学者ではないし、学者は智者ではない」
…という言葉を残したわけですね。
しかし、ここで一つ疑問が生じます。
「学者だからといって智者とは限らないというのは納得できる。
でも、智者の中には、学問にも長けた“学者”と呼ぶにふさわしい人も
いるものなんじゃないの?」
…その疑問に対する一つの答えとして挙げられるのが
次の言葉です。
老子は、
「多聞なればしばしば窮す。中を守るに若かず」
という言葉も残しているんです。
これは、知識を蓄えるほどに賢くなる一方、
既存の観念に縛られて、柔軟さを失ってしまうという意味。
さらに、「真の知者は学ぶほどに中(虚心)にかえっていく」とも言っています。
つまり、真の智者は、知識をどれだけ蓄えようとも学者にはならない!
どんどん自分の中を空っぽに近づけていけるということなんです。
コレ、できそうでいて難しいことですよ。
「単に知識を覚えなければ良いだけなんじゃないの?」
と思われるかもしれませんが、見聞きしたことは
私たちの思考に確実になんらかのバイアスをかけてしまいますからね。
だからこそ、ホンモノの「智者」にはなかなかお目にかかることができないのです。
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