老子の言葉をわかりやすくお届けします

「悪」の判断は難しい

何をもって「善」として、何をもって「悪」というか。
古来、多くの哲学者たちが実に様々な持論を展開してきましたよね。

 

人間が、人間の行い(または考え方)を裁き、「罰」を与える…
これ、よく考えると、非常に曖昧なものですし、
だからこそ、場合によっては取り返しのつかない
“危険”をはらんだ行為とも言えます。
実際、冤罪によって「受けなくても良いはずの罰」を課せられ
人生の大部分を失ってしまった方々もいらっしゃるわけですよね。

 

「悪」の判断は難しい。人に罰を課すのは難しい。
それは、老子の言葉にもよく表れています。

 

「勇於敢則殺、勇於不敢則活。
此兩者或利、或害。
天之所惡、孰知其故。
是以聖人猶難之」

 

(あえてするに勇なればすなわち殺、あえてせざるに勇なればすなわち活かつ。
この両者はあるいは利、あるいは害。
天の悪にくむところ、たれかその故を知らん。
ここをもって聖人すらなおこれを難かたしとす)

 

悪人がいた場合、勇気を持ってこれを殺すか?
あるいは、勇気を持ってこれを殺さずに置くか…。
この2つは、1つは利になり、1つは害になる。
天が憎むのはどちらか分からない。
誰も天意がどこにあるのか分からない。
聖人にとっても、この判断は難しい。

悪は必ず罰せられる?

聖人でさえも、悪人をどう罰すれば良いのかはわからない。
その判断は難しい…と、老子は言います。
この言葉には、人が人に対して「善か悪か」の判断を下し、
そしてしかるべき罰を与えるということの難しさが非常によく表れていますよね。

 

そもそも、人が人を裁く権利なんてあるのでしょうか?
どんなに「善人だ」と言われる人の心の中にも、
人を妬んだり、憎んだりする気持ちもあれば、
「あれが欲しい」「もっとこうだったら良いのに」という“欲”もあるでしょう。
どんなきれいごとを並べても、
ゼロから100まで「他人を想う思いやり」しかない人なんていません。
それが人間のありのままの姿でしょう。

 

そんな人間に、他者を裁く権利があるのかどうか…。
その問に対する一つの答えとして、老子は次のように説いています。

 

「天之道不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、?然而善謀。
天網恢恢、疏而不失」

 

(天の道は争わずして善く勝ち、言わずして善く応ぜしめ、
召さずしておのずから来まねき、?然として善く謀る。
天網恢恢、疏にして失わず)

 

 「天の道」は争わずして勝ち、言わずして万物の要求によく応じ、
招くことなく来させ、ゆっくりとしながらもうまく計画する。  
天の網は広大で網目は荒いが、決して漏らすことは無い。

 

…「言わずして万物の要求によく応じ、招くことなく来させ」
というのはどういうことなのか、というと
「予告せずに、しかも手の内を見せずに結果をもたらす」ということです。
「今から悪者に罰を与えるぞ〜」「逮捕するぞ〜」
などとおっぴらに予告することはありませんが、
どんな悪事も見逃さずにとらえるのです。

 

すなわち、「悪事は必ず罰されるのだ」ということですよね。
周りの人間や世間がお前をどう判断しようが、天は見ているぞ。
…そのような“戒め”とも捉えられる言葉です。

◆人を裁くことの難しさ

人を裁き、罰を与えるということは、
非常に難しくてデリケートな問題です。
とりわけ、“死刑”については様々な考え方があり
専門家の間でも意見が分かれるところですよね。

 

老子は、
「罰として人を殺すべしと判決する人と、殺すべきではないと判決する人。
どちらにも理にかなった部分はある」
と、人によって判決が分かれることを認め、同時に、

 

「誰が殺されるべきで、そしてその理由は何なのか
これは誰も知りようがない。
聖人においてすら、このことは難しい問題なのだ」   

 

…と、“罰”の難しさも認めています。

 

 

しかし、最終的には、

 

「人が裁こうが裁くまいが、罰を与えようが与えまいが、
天はちゃんとしかるべき結果をもたらす。
悪徳は必ず罰を受けるぞ」

 

…といった内容でまとめているのです。

 

見えないところにも、確かに“目”はあるんですね…。