老子といえば、「道」
『老子』の思想の根幹を成すものが、「道(みち)」。
英語では、Tao=タオと呼ばれるものです。
言葉で説明するのは非常に難しいものなのですが、あえて言うなら
「天地が始まる以前から存在するもので、
万物の根源であり、それを支える自然の原理であり、永遠不変の真理のようなもの」
…そう言われても、「全くイメージが湧かない!」という方も多いでしょうね(笑)。
視覚的なイメージで言うと、ビックバンを想像すると分かりやすいかもしれません。
実際、TV番組で老子の「道」を説明する際には、
宇宙(ビックバン)の映像がよく使われていますし…。
要するに、この世の本当の始まり。
宇宙の始まりすら飛び越えて、もっともっと前にある“根源”が「道」なのです。
これが道だと説明できるものはない
「道可道、非常道。名可名、非常名」
(道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。)
老子によれば、「これが道だと説明できるようなものはない」のだとか。
もしそんなものがあるのだとしたら、「それは道ではない」のだと言います。
そして、これが「名」だと呼べるようなものもなく、
そんなものがあれば、それは本当の「名」を表してはいない…。
この言葉から分かるように、「道」とは、
私たち人間の小賢しい知恵や言葉で表現できるようなものではありません。
それは、形もなければ音もない。
何にも依存せず、何にも左右されず、ず〜と変わらない。
そもそも、「道」という名前すら“仮”のものであって、
本当は名前すらない。名づけることすらおこがましい。
…そういう崇高なものなんですね。
しかし、それほど実体のつかめない存在でありながら、
「道」は万物の母であり、無限のエネルギーを秘めたものでもあります。
だからこそ、その「道」にしたがって、あるがままに生きることが大事なのだと、
その「無為自然」な生き方こそが理想なのだと老子は説いています。
「道」はからっぽ
ここまで読んで、
「う〜む、ますます『老子』がわからなくなったぞ」
「要するに“道”ってなんなの!?」
…と、頭の中がこんがらがってきた方も多いかもしれません。
確かに、『老子』に書かれた「道」の教えは、
ちょっと読者を煙に巻くようなところがあります。
要するに何が言いたいのか、わかりづらい面があるんですよね。
ちょっと乱暴に解釈してしまうと、
「物事に名前をつけて、わかったような気になるんじゃないよ」
「人の言うことを鵜呑みにして生きるんじゃないよ」
「物事の名前に左右されず、根源的なものをよく見極めて生きるんだよ」
…ということを教えてくれているのです。
老子によれば、「道」とは「からっぽで何もない、姿も形もないもの」
しかしながら、どれだけ使ってもいっぱいにはならず、底が分からないほど深い。
だからこそ、万物を生み出すことができる…。
人間もこれと同じで、常にいっぱいいっぱいの状態では
新しい何かを生み出すことは難しいですよね。
ともすれば、自分を“満たす”ことばかりに躍起になりがちですが、
本当は、からっぽになることこそが理想の生き方。
満ちたままの状態に固執せず、“からっぽ”になる勇気を持つことが
ある意味では最も“創造的”=クリエイティブな生き方と言えるのかもしれません。
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