老子の言葉をわかりやすくお届けします

老子は吝嗇家だった?

私利私欲に走ることを戒め、
「自然に与えられたものを大切に」、「ありのままに」
身の丈に合った生き方を理想としていた老子。
質素倹約な生活をススメていたようですが…。

 

…これだけの情報だと、
「老子って”吝嗇家=要するにケチ”だったの?」
と思われても仕方がないのではないでしょうか(笑)。

 

しかし、私たちが日常的に使う”ケチ”という言葉のニュアンスとはだいぶ違っていたよう。
老子が「質素倹約」を勧めていたのは、
それが国力の保持につながると考えてたからです。

 

「治人事天、莫若嗇。
夫唯嗇、是謂早服。早服謂之重積徳。
重積徳、則無不克。
無不克、則莫知其極。
莫知其極、可以有國。」

 

(人を治め天に事うるは、嗇に若くは莫し。
夫れ唯だ嗇なり、是を以て早く服する。
早く服する、之を重ねて徳を積むと謂う。
重ねて徳を積まば、則ち克たざる無し。
克たざる無からば、則ち其の極を知る莫し。
其の極を知る莫からば、以て國を有つ可し。)

 

人々を治め、天に仕えるには、吝嗇にまさるものはない。
そもそも吝嗇であればこそ、それだからこそ早くから道に従うのである。
早くから道に従うことを、繰り返して徳を積むというのだ。
くりかえして徳を積めば、勝てないものはない。
勝てないものがなければ、その力の極限は知りようがない。
その極限が知られていなければ、国を保つことができる。

”必要以上”を捨てればラクになれる

「治人事天、莫若…」の老子の教えは、本来は国を統治する政治家に向けたメッセージ。
しかし、ある意味では、私たち一般庶民の生活にも生かせる言葉です。

 

人間は”欲望”の奴隷になりやすい生き物ですから、
放っておけば、質素倹約どころか欲しいものをどこまでも貪欲に追い求めてしまうでしょう。
その結果が、地球規模での環境破壊であり、貧富格差の拡大であるとも言えます。

 

老子の教えの通り、「身の丈に合った量で満足する」ということを覚えれば、
人を羨んで苦しむこともなくなりますし、
「欲しいのに手に入れられないストレス」からも解放されます。
精神的にも経済的にもラクになれる…そう言っても過言ではないでしょう。

 

きりのない欲望に身を任せて、「次へ次へ」と欲しいものを追い求めていると、
本当はすでに自分の手のひらの中にあるのかもしれない
大切な”宝物”を見失ってしまいます。

 

これは、物質的なことに限らず、地位や名誉についても言えることですよね。
成し遂げたいことを達成したら、あとはスパッと退く。
後輩に道を譲る。
そのような潔さ、引き際の良さも、ある意味ではひとつの”質素倹約”なのかもしれません。

物事は全て、”相対的”

私利私欲にふりまわされず、質素倹約をモットーとする。
…コレ、口で言うのは簡単ですが実行に移すのは難しいですよね。

 

なぜなら、私たちは周りからの”評価”を気にする生き物だから。
「自分は満足しているんだから、人にどう思われたって良いんだ」
と自らのポリシーを貫けるような、老子のような人物は稀です。
誰だって、人から「良く見られたい」「高く評価されたい」
そして、「好かれたい」のですから。

 

しかし、実はその”評価”とは非常に当てにならないもの。
…というのも、私たちの評価は、常に
「A vs B」の”比較”をベースにしたものだからです。
「悪があるから美がある」「不善があるから善がある」「無があるから有がある」
という老子の教えからもわかるように、全ては「相対比較」。
自分と”誰か”を比べることによって、
「キレイだ・ブスだ」「金持ちだ・貧乏だ」「賢い・バカだ」と評価しているだけ。
その”評価”は絶対的なものではあり得ないわけです。

 

そう考えると、質素倹約でケチに暮らしていても、
金持ちで羽振りが良い人に対する羨望や「やっかみ」に捉われることはなくなるでしょう。
だって、所詮それは、「自分よりも金持ち」、「自分のほうが貧乏」
と言う”相対比較”でしかないわけですから。
自分が「絶対的な貧乏」で、相手が「絶対的な金持ちだ」とは言えないのです!