リーダー論にもつながる言葉
残した功績は確かに尊敬に値するものだったとしても、
「アレ、オレがやったんだぜ〜」
というアピールが強い人は煙たがられますよね。
(「オレが」とは言わないまでも、アピールが鬱陶しい人は多いもんです…)
しかし、老子によれば、立派な仕事を成し遂げても、
「それは自分がやったんだ」という跡を残さない人こそが
理想的な在り方なのだとか。
実はこれは「リーダー論」にも通ずるところがあります。
老子が考える「理想のリーダー」とは、自分の存在を意識させない人。
自分の功績はおろか、存在すら大げさに意識させることなく、
「ああ、そういえばそんな人がいたね」
…という程度に認識されているくらいがちょうど良いと言うのです。
もちろん、仕事はちゃんとやってもらわないと困りますよ(笑)!
やるべきことをやりながらも、それを周りの人に意識させることなく
組織を自然により良い方向に導く…
これがリーダーの本来の役割だと老子は考えていたのです。
しかし、承認欲や名誉欲に駆られて自らの“跡”を残したがるのが人間の性。
老子の言うような理想を実現するのは、
頭で考えるよりもずっと難しいことなのではないでしょうか。
優れた人は跡を残さない
「善行無轍迹」
(善く行くものは轍迹なし)
すぐれた行動をとる人は、動いた跡を残さない。
…何か立派なことを成し遂げたとしても、
「自分が、自分が」とことさらにアピールするようじゃあ、まだまだだな。
そんな意味に解釈できるこの言葉ですが、
「何事もスマートにやってこそ一流だよ」という教えにも解釈できそうですよね。
冬山でスキーを滑ってみるとよくわかりますが、
上級者が滑った跡というのは本当に美しいものです。
というより、ほとんど跡が残っていない!
すこし雪が降れば、すぐに隠れて見えなくなってしまうレベルです。
一方、筆者のように下手な人が滑った跡は、とにかく醜い(苦笑)!
転んでお尻をついた跡、無駄にスティックを突いた跡…。無残なものです。
老子の教えとスキーの跡を重ねて話をするのは
ちょっと方向性がズレているかもしれませんが、
『老子』ビギナーにはとっつきやすい例えなのではないでしょうか?
ちなみに、「轍迹(てっせき)」とは、足跡や車のわだちのこと。
行動したとしても、「動いた跡」は残さない
立ち去ったことすら周りに気づかせないという意味です。
“無心”であれ!
老子は、その著書の中で、「無心であれ」と繰り返し説いています。
しかし、そもそも無心ってどういう境地なのでしょうか?
老子の言う「無心」とは、私利私欲にとらわれず、
ただ自然の理に従って目の前の物事に取り組むこと。
功名心などに支配されることなく、
立派な仕事を成し遂げたとしてもその跡を残さない。
これぞ、「無心」です。
無心であることも、跡を残さないことも、
現代を生きる私たちにはなかなか難しい課題でしょうね。
なにしろ、「目立ってなんぼ!」のアピール合戦の中で生きているわけですから。
しかし、ひとたび自然界に目を向けてみれば、
花は誉められるために美しい花を咲かせるわけではありませんし、
植物は賞賛されたいがゆえに美味しい実をつけるわけでもありません。
ただ、自然の理にしたがって、命をつなげているだけ。
つまり、「無心」なのです。
自分を見失いそうになったら、
何かにとらわれて生きづらさを感じるようになったら。
一日ほんの数分でも外の世界に目を向けてみてはいかがでしょうか。
“無心”の手本は、そこにあります。
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