老子の言葉をわかりやすくお届けします

人間関係を変えられるかどうかは自分次第

人付き合いにおいて、「なんでも相談しやすい人」と、
「なんとなく心を開きにくい人」っていませんか?

 

はたまた、
「なかなか相手が心を開いてくれない」
「人との距離が縮まらない」
…と悩んでいる方も…。

 

その要因としては様々なことが考えられると思いますが、
その一つが、「自分自身が“自分”を開いていない」
ということではないでしょうか。

 

実際、よく人から相談を受けたり、頼りにされたりする人は、
自分の失敗や弱みを隠さないタイプが多いようです。
人から相談を受けた際にも、
自分の失敗談や悩みを交えてアドバイスしてくれるので、
相談した側からしてみれば、
「そうか、悩んでいるのは自分だけじゃないんだ」
という安心感を得ることができますし、
「なるほど、そういう手があるのか」
と、提示されたアドバイスもスッと腹落ちするわけです。

 

一方、自分の弱みを絶対に見せないタイプの人に対しては、
「こんな相談をしたら笑われるんじゃないか」
「どうせ、心の中ではバカにされているに違いない」
と、警戒心を抱いてしまうためになかなか本音で話ができない!
つまり、相手に心を開いてもらいたいのであれば、
まずは自分自身がオープンになることが必要なのです。

 

ちょっと意味合いは異なりますが、これは、
「奉仕」について教えた老子の次の言葉に通ずるものがあります。

得たいと思うなら、まずは自分から

既以爲人己愈有、既以與人己愈多。
(人の為にして己いよいよ有し、既く以って人に与えて己いよいよ多し)

 

人々のために行動して大切なものを手に入れ、
人々に何もかも与えてかえって心は豊かになる。
…つまり、精神的な豊かさを得たいのであれば、「他人へ奉仕せよ」と、
「奉仕」の大切さを説いているのです。

 

「なにを寝ぼけたことを言っているんだ!
そんなのは偽善だ! 誰だって、“自分のため”が一番大事なハズだ」

 

…と一蹴する方も多いかもしれません。
確かに、なんだかんだ言っても、
人間だれでも自分が一番かわいいし大事です。

 

自分が飢えそうな状態の時に、
最後のパン1個を他人にあげられますか?
自分が今にも倒れそうなくらい絶不調な時に、
他人を優しく気遣える余裕はあるでしょうか?

 

…多くの人は、「無理!」と答えると思いますが、
老子は、あえてそこで「他人に奉仕せよ」と促しているのです。
自分のために蓄えるのではなく、自分以外の人々のために行動せよと。
そうすることによってこそ、大切なもの、すなわち「心の豊かさ」が得られる。
聖人と呼ばれる人は、すべからくそういうものだ…と。

 

その感覚、なにかしらのボランティア活動に参加したことがある方なら
実感としてお分かりなのではないでしょうか?

奉仕することは「息を吐く」ことと同じ?

人や社会に無償で奉仕することは、自分自身に余裕がなければできないこと。
その余裕というのは、金銭的なことばかりではありません。
相手を受け入れるための余裕、言い換えれば、心の「空きスペース」です。

 

そして、その空きスペースを作るためには、
自分の中にあるものを「吐き出す」ことも必要。
知識を、情報を、思いを溜め込んでいくばかりでは、
空き容量はなくなってしまいますからね。

 

ある意味では、奉仕するということは、「呼吸」と似ているのかもしれません。
すなわち、息を十分に吐き出すことができなければ
新しい空気を吸うこともできませんよね。

 

空気を吸わなければ生きていけませんから、
「吸う」こと自体は意識しなくても自然にやっているものです。
しかし、吐くことのほうは、意識しないと浅くなってしまいます。
「息を吐くから、吸える」
言い換えれば、
「人に奉仕することで自分の中にも余裕が生まれる」ということ。
相手に心を開いてもらいたいのであれば、まずは自分から行動することです。