私たちは自分で自分を苦しめている?
私たちは幼い頃から、勉強すること、
すなわち“学ぶ”ことの大切さを教え込まれて成長してきましたよね。
イヤイヤながら勉強を強いられた記憶もあるかもしれませんが、
同時に、学ぶことの楽しさを実感する機会も少なくなかったハズ。
Aという現象一つとってみても、昨日までは
「なぜそんなことが起こるのか?」見当すらつかなかったのが
今日一つの公式を学んだことで、霧が晴れるように理解できるようになった。
…そんな体験をしたことはないでしょうか?
しかし、逆に、物事を知り過ぎたが故に、
かえって悩みが深くなってしまったということも…。
老子によれば、学ぶことは思い煩う種を増やしているとも考えられるのだとか。
学びによって知恵や知識を身に付けたが故の苦悩もあるというのです。
学ぶことをやめてしまえば…
「絶学無憂」
(学を絶てば憂い無し)
非常に逆説的なこの言葉。
「学ぶことをやめてしまえば、思い煩うこともなくなるよ」
…という、老子ならではのちょっとした“皮肉”ですよね(笑)。
確かに、学ぶことで苦しみが深くなることはあります。
例えば、英語の勉強を例に考えてみましょう。
学び始めた頃は、「わ〜い、ちょっと英語が話せるようになったぞ」
と学ぶことに楽しみすら覚えるものの、徐々に学が深くなると、
「この単語も知らなかった」「この表現も分からなかった」
「まだまだ覚えるべき単語がこんなにある…><;」
…と、自分の知識のなさ、自分の無知さを思い知らされるようになってきます。
潜り始めた頃は、遠くにぼんやりと見えていて
「思ったよりも浅いのかなあ」なんて思っていた“底”が、深く潜れば潜るほどに、
どうあがいてもなかなか到達できないほどに深いものであることが分かってきます。
つまり、学が深くなればなるほど、研究を突き詰めれば突き詰めるほどに
その学問の“底”がますます見えなくなってくるんですよね。
この感覚が、老子が言うところの“憂い”。
知識や知恵を身につけてかえって苦しくなるくらいなら、
いっそ学ぶことをやめてしまったらどうだろうか?
…と提案しているわけです。
無知を自覚せよ
人に憂いが生ずるのは、学ぶからだ。
だったら、学ばない生き方も一つの選択肢じゃないか。
…と説いた老子はまた、次のような言葉も残しています。
「知不知上、不知知病」
(知りて知らずとするは上なり、知らずして知るとするは病なり)
知っていても知らないとするのが最上で、
知らないのに知ったかぶりをするのは欠点である…という意味のこの言葉。
何かを学んで知っていても、その知識をひけらかすのでは
本当に「知っている」とは言えない。
大事なのは、
「知っていることと知っていると認め、知らないことを知らないと認めること」
これこそが、本当に“知る”ということなのだと老子は言っています。
要するに、ざっくりと訳せば「知ったかぶりをするなよ」という教えなのですが…。
私たちは、「周りに評価されたい」「スゴイって言われたい」「称賛されたい」
という気持ちが強いが故に、知ったフリをしてしまうことはよくあること。
また、自分では「知っているつもり」になっていたのに
イザという時にその知識が全く役に立たずに困ってしまうということもありますよね。
いずれにしても、老子は、
学んで知識を身につけるよりも「自分」というものを正確に把握しておけよ、
…と言いたかったのではないでしょうか。
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