根幹を成すのは「無為自然」
老子の思想で最もメジャーなものといえば、
「無為自然」ではないでしょうか?
この言葉こそ、まさに老子思想の中核。
字面のままに解釈すると、
「あるがままに、自然の流れに逆らわずに暮らすべきだ」という考え方です。
ただ、専門家の間では、「政治的な思想に通ずるものが」とする説も。
すなわち、「余計なことをしない政治」、
必要以上に与えたり、規制したりしないほうが、世の中はまるく治まるよ
…という教えではないかという解釈もあるんです。
その解釈の元になっているのは、「爲無爲 則無不治」という言葉。
『何もしないこと』を実践すれば、必ず天は治まるよ、という意味です。
賢者を持ち上げたりしなければ民に争いが生ずることもない。
得がたい財貨に価値を与えなければ、民が盗みを働くこともない。
物欲を掻き立てる物も、それを見なければ心は乱れない。
だから、常に民には何も知らせず、そして何も欲させるな。
知識人は、政治に活用するのではなく、何もさせるな。
…これだけ聞くと、
「えッ、なんかそれって、ちょっと違うんじゃない?
国民のこと、バカにしてない?だましてない?」
と思われるかもしれません。
しかし、このような政治下では、
「虚其心 實其腹 」=民は、空虚な意識しかなくとも腹は満腹
「弱其志 強其骨」=心は弱くても、骨肉は丈夫
なのだと言います。
空腹でも、自意識バリバリ!あたまでっかちで悩みの多い人生が良い。
健康ではなくても、人並み外れた精神力に自信あり。
…そのような人にとっては、「無為自然」な治世は
物足りなさを感じることでしょうね。
儒教への批判
老子思想の特徴、それは、儒家思想に批判的だったことです。
この2つの思想は、今でもよく比較対象に挙げられますよね。
では、なぜ、老子は儒家思想に批判的だったのでしょうか。
それは、儒家が重んじる仁義や善や智慧、孝行や慈悲、忠誠や素直さは、
非常に形式的なものであって、そこに「心」がないからです。
(少々、乱暴な解釈ではありますが、端的に言えばそういうことです)
そもそも、そんな形式的なものを持ちださなければいけなくなったのは、
現実にはそれらがあまりに少ないから。
本来は、そんなことをわざわざおおっぱらにもてはやさなくとも
心の動きに任せていれば自然に行いに表れるものであるはずだというのです。
このような状態を指して、老子は「偉大な“道”が廃れている」と表現しました。
道が廃れてしまったから仁義が現れ、
大きな嘘、欺瞞があるから智慧がとりたざされるようになったのだと。
また、「六親(父、母、叔父、伯父、叔母、伯母)の仲が悪い時に限って、
ことさらに孝行や慈悲がもてはやされる」とも言っています。
足るを知って、ムダに争わない!
老子の思想は、ともすれば複雑なように思われがちですが、
実は非常にシンプル。
究極的には、
「自分の身の丈に合った満足(=足る)を知れば
無駄に欲しがることもないし、ムダに誰かと争うこともない。
これが一番幸せな人生のカタチなんだよ〜」
という考え方なんです。
老子は、「名與身孰親、身與貨孰多 得與亡孰病」という言葉で、
「肩書き(地位や名誉)と人生はどっちが大事?
自分の生命を犠牲にしてまで欲しいお金や品物なんてあるのか!?」
という問いかけをしています。
人間、地位や名誉に心を奪われてしまうと、
「今の地位を守らなくては!」そして「もっと偉くなりたい!贅沢したい!」
…と、「もっと、もっと」と無理をするようになります。
すると、結果的には他人から怨みや妬みを受けたりすることにもなり兼ねません。
それが原因で、足を引っ張られたり、大事なものを奪われたり…。
それって、幸せな姿とは言えませんよね。
ですから、物事は、ある程度で満足しておいたほうが良いよ、
変な欲は出さないほうが、恥辱をうけることはないんだよ。
…と、老子は言うのです。
このように、老子の思想は、言ってみれば「Happyスローライフ」。
高速型のライフスタイルに対するアンチテーゼです。
「やられたら倍返し!」「常に上を目指すべし!」「人の上に立ってこその人生だ!!」
…と、常に血気盛んな人生を送りたいという方にとっては
消化不良感が残るものと言えるかもしれませんね(笑)。