老子の言葉をわかりやすくお届けします

原木から伐り出したばかりの木

私たちの身の回りには、「木」を使ったものがあふれていますよね。
テーブル、椅子、タンス、そして家。

 

どんなにオシャレなテーブルも
どんなに豪華で大きな家も。
もともとは、一本の木。
当然のことながら、原木から伐り出したばかりの木は、
なんの装飾も施されていない“ありのままの姿”です。
いわば、「素朴」な状態のわけですよね。

 

ここからいろんな形に加工されることによって、
木には様々な役割が与えられていきます。

 

老子に言わせれば、それは人も同じこと。
もともとは、原木のように飾り気なく「素朴」であるハズなのに、
変に知恵をつけるから欲に駆られるようになり、自分本位になってしまう…。
結果として、「不幸」になってしまうわけです。

 

周りから「素朴な人だね」と言われると、
なんとなく暗に「ダサイね」とバカにされたように感じてしまうことはないでしょうか?
しかし、老子的な考え方に基づけば、
「素朴だね」は最高の褒め言葉!

 

変に自分を良く見せようと飾り立てたりしていない、
私利私欲に支配されていない、
“ありのままの人間の在り方”を維持できている人。
まさに、「道」に従った生き方ができているねと、認められたということです。

「樸」とは?

老子の言葉の中には、よく、「樸」というキーワードが登場します。
これは、前述のように、原木から伐り出したばかりの木のこと。
飾り気がなく、ありのままの“自然”な姿を言い表しています。

 

この「樸」は、素朴の「朴」にも通ずる言葉。
「素朴であることの大切さ」を説いた教えとして、
次のような言葉が挙げられます。

 

「見素抱樸、少私寡欲」
(素をあらわし、樸を抱き、私を少なくし欲を寡なくせよ)

 

伐り出したばかりの木のような素朴さを大切にして、
自分本位をやめ、欲を減らして生きていこう。

 

…このような言葉を聞くと、
「自分本位でナゼいけないのか!?誰だって自分が大事じゃないか?
自分の欲望に従って生きることはイケナイことなのか!?」
…と噛みついてくる人もいるかもしれませんね(笑)。

 

確かに、私たちは自分が誰よりも大好きですし、
誰よりも自分が大事です。
放っておけば、自分の欲望のままに他者を傷つけることも多いでしょう。

 

しかし、それは「心豊かに生きる」行き方とは言えません。
欲望は次々と果て無く生まれるものですし、
その欲望に心身を任せてしまっては、
どこまでいっても「満足」を知ることはありません。

 

だからこそ、老子は言うのです。
「素朴に還れ」「自然に帰れ」
そして、「足るを知れ」と。
「ありのままの自分」を知れば、「身の丈」というものも見えてくるハズ。
そうすれば、欲に振り回されて身を亡ぼすという悪循環に
終止符を打つことができるのです。

なにより大切なことは「自分を知る」こと

老子の教えを読んでいると、
人間にとって「自分を知ること」が非常に大切なことであることに
ハッと気づかされます。

 

自分というものの「身の丈」をわきまえていなければ、
人はついつい無理をしてしまいます。

 

「もうちょっと頑張れば、手が届くんじゃないか」
…しかし、第三者から見れば、
「いやいや、そりゃあどんなに背伸びしても、君には無理でしょ」
ということって多いものですよね。

 

確かに、手が届きそうで届かない「身の丈以上」の目標に向かって
懸命に努力することは素晴らしいことです。
しかし、それでもやはり、「素朴な」自分の姿をわきまえていないと、
いつまで経っても「足る」を知ることができません。

 

あと少し、もう少し、まだまだ…。
常に「足りない」と思いながら生きることは、
それは、幸せな生き方と言えるでしょうか?