老子の言葉をわかりやすくお届けします

役に立たないものなんてない!

一見、役に立たないと思われるものが、実は大きな役割を果たしている。
それを表すことわざとして、「無用の用」という言葉があります。
実はこれ、老子の思想に基づくことわざだったということをご存知でしょうか!?

 

役に立たなさそうに見えるものが、実は大事。

 

…老子らしい「逆説」をはらんだ言葉ですよね。
「それにしても、よくわからない。具体的にはどういうこと?」
という方も多いかもしれません。

 

例えば、世間話ってムダでしょうか?
一見、時間をムダにしているようにも思えるかもしれませんが、
実はその話題の中に重要なヒントが隠されていたりします。

 

お昼寝ってムダでしょうか?
一見、生産性がないように思える時間ですが、
ほんの一眠りしただけで頭の回転が良くなることもあります。
みなさんもそんな経験はないでしょうか?
古の偉人たちも、寝ている間の夢でひらめきを得た人が何人もいます。
ドイツの化学者、フリードリッヒ・アウグスト・ケクレが、
うたた寝していたとき見た蛇の夢から
分子構造式のベンゼン環を思いついたというのは有名な話ですよね。

 

建物にしてみても、高額な費用をかけて作るのは「家」という器ですが、
実際に人間が利用するのは、その中にある「空間」。
一見、何もないように見えるこのスペースこそが、
人の生活には欠かせないものになるのです。

 

生き物の世界も同じです。
「何の役に立っているんだろう?」と思われるようなこんな小さな虫でも、
それを食べて生活している虫がいて、
さらにその虫を食べている虫がいて…と食物連鎖は続いています。
たった一種の虫が絶滅しただけで、それに伴って
さらに何種類もの生物の命が失われてしまうのです。

 

この世の中に役に立たないものなど何一つないのです。

無用の用

では、「無用の用」ということわざの元になったという老子の言葉とは
いかなるものなのでしょうか。

 

「三十輻共一轂。当其無有車之用。        
挺埴以為器。当其無有器之用。        
鑿戸?以為室。当其無有室之用。        
故有之以為利、無之以為用。」    

 

(三十輻一轂を共にす。某の無に当たりて、車の用あり。
埴をこね、以て器を為る。某の無に当たりて器の用あり。
戸?を鑿ちて、以て室を為る。某の無に当たりて、室の用あり。
故に有の以て利をなすは、無の以て用をなせばなり)

 

車輪は、三十本の輻が真ん中の轂に集まって出来ている。
その轂に車軸を通す穴があいているからこそ車輪としての用を為すのだ。
器を作るときには粘土をこねて作る。
その器に何もない空間があってこそ器としての用を為すのだ。
戸や窓をくりぬいて家は出来ている。
その家の何もない空間こそが家としての用を為しているのだ。
だから何かが「有る」という事で利益が得られるのは、
「無い」という事が影でその効用を発揮しているからなのだ。

 

「ドーナツの穴には意味があるのか?」

 

という問いにもつながりそうな言葉ですね(笑)。
ちょっと強引な解釈かもしれませんが、
「物事の本質は、目に見えないところにある」
というメッセージが込められているのではないでしょうか。
実際、老子思想の中核である「道」も、目には見えないものです。
しかし、それでいて確かに存在していて、
この世の万物を作り出している…。

人間の世界に発展させて考えてみると…

老子の「無用の用」を、人間の社会に当てはめて見てみると…。

 

例えば、最近は、
「パソコンも使えない人間は使いものにならない」
などと、IT化の波に乗れない人間は肩身の狭い思いを強いられます。
しかし、パソコンは使えないけど、書道の達人!だったら…。
社員や取引先での弔事があった時、
香典袋に美しい字を披露することができます(笑)。
「バカバカしい!」と思われるかもしれませんが、
最近は美しい字を書ける人が減ってきていますから、
この能力はどこへ行っても重宝しますよ◎

 

また、仕事はま〜ったくできず、活躍の場もないにも関わらず、
その人がいるだけで場が和む、「ただいてくれるだけで良い」
という存在の人もいますよね。
どこの会社にも、そういうタイプの人が一人くらいはいるのでは?

 

所詮、人が人に対して下す評価など、絶対的なものではありません。
ですから、「用」だの「不用」だのという評価に流されず、
自分の道を進んでいくことができれば、それが最高の幸せなのかもしれませんね^^