老子の言葉をわかりやすくお届けします

知識ばかりで頭でっかちになり過ぎていませんか?

知識はないよりもあったほうが良い。
むしろ、人より多くの知識を身に着けていたほうが
社会を生き抜く上では有利になるし、
知識がない人よりも幸せになれるんじゃないだろうか?

 

おそらくほとんどの人は当たり前のようにそう信じ、
その考え方をベースとした生き方をしているのではないでしょうか。
実際、子供の頃から、「勉強しなさい」と言われ続け、
次々と新しい知識を詰め込まれてきたわけですから。

 

かの有名な中国の思想家、孔子の書物(『論語』)でも、
道徳や礼儀、技能の向上において「知識を身に着けること」は
非常に大事なことだと説かれています。
知識を身に着けるからこそ、社会が発展するのだ…と。

 

しかし、老子が問いた教え、理想とした生き方はそれとは真逆!
知識なんていうものを必要以上に身に着けるから頭でっかちになってしまう。
「学び」で身に着ける礼儀も仁義も、そんなものは「単なる押しつけだ!」
と言うのです。

 

老子が理想としていたのは、「あるがまま自然に」「ありのままに」という生き方。
自然に習い、自然の中にある「普遍の真理」に忠実に、
自然に湧き上がるものを大切にした生き方をしていれば
それらの“道徳”は自然に表れるものです。
仁義や孝行、慈愛、忠義…儒家が声高に叫ぶものは全て“自然”の中にある、
…と老子は考えていたのです。

自然のまま、心身の声に耳を傾けてみよう

知識に頼らず、“ありのまま”の感覚を大切にした生き方を勧めていた老子。
私たちの日常生活の中になぞらえてみても、
「ああ、私たちは頭でっかちな生き方をしているなあ」
…そのように実感する場面は多いものです。

 

例えば、「“ありがとう”を大切に」とか、
「思いやりを持ちましょう」「マナーを大切に」とか・・
いわゆる“道徳”を啓蒙するCMやポスターを町の中でよく目にしますよね。

 

しかし、人に対する感謝の気持ちや、「申し訳ない」と思う気持ちは
誰かに押し付けられるべきものではなく、本来は“自然に”湧き上がってくるもの。
「“ありがとう”は魔法の言葉」などとよく言われますが、
大切なのは表に現れている「言葉」としての「ありがとう」ではなく
目には見えなくてもその人の内面にポッと生まれる“ありがとうの気持ち”です。
それがないのに、口先だけで「ありがとう」を連発していても、
その言葉には命はこもらず、相手の心には何も響きません。

 

老子が理想とする生き方のように、言葉の前にまずは
「自分の心に自然に浮かび上がってくるもの」を大切にしてみてはいかがでしょうか。
「お礼をいわなくちゃ」と思ってとっさに「ありがとう」を口に出すのではなく、
胸に湧き上がる「ありがたいな」「助かったな」「この人がいてくれてよかったな」
…という思いをきちんと“感じてから”、「ありがとう」を発するのです。

 

生き方全てにおいてこれが実践できるようになれば、
今まで無意識のうちに背負わされていた
「言わされている」というストレスからも逃れられて気持ちがラクになるハズですよ!

物ごとは2つの面からとらえるべし

老子の代表的な思想に、「無から有が生ずる」という考え方があります。
これは、「無」という考え方があるから「有」があるということ。
発展させていくと…

 

「小さいものがあるから大きいものがある」
「醜いものがあるから美しいものがある」
「“暗い”という概念があるから、“明るい”がある」

 

…という風に、全ての物事は「二つの相対比較」でとらえることができる
ということに気づきます。

 

人の生き方にも、このような「老子的考え方」を応用すると、
生きることは今よりラクになるハズ!
全ての物事には二面性があり、しかもその二つの面は全く無関係なのではなく
互いに影響し合い、補い合って存在しているのです。

 

「自分なんて目立たない存在だ。いてもいなくても同じだ」
と自身の境遇を嘆いている方がいるとしたら、それはとんでもない誤解!
「いなくてもいい」と言われるほど存在感のない“存在”があるからこそ、
圧倒的な存在感を放つ人が引き立つのです。

 

「アイツが目立ってイイ気になっていられるのは、
自分という日陰の存在があるからだ」
そんな風に、“老子的上から目線”で相手を見てみると、
調子に乗っている相手のことがちょっと滑稽に思えてきませんか?(笑)