老子の言葉をわかりやすくお届けします

天はあなたの味方?

仕事にしてもプライベートにしても、

 

「どうして自分だけがこんな理不尽な目に遭わなくちゃいけないんだ!」
「自分だけが損をしているような気がする…」

 

…そんな被害妄想に陥ることは、誰にでも有り得ること。
そこでいかにして気持ちを切り替え、モチベーションを上げていけるかが
“その後”の結果を左右すると言っても過言ではありません。

 

「どうせ自分なんて」と腐ってしまえばそこで終わり。
「いやいや、ここが踏ん張りどころ!」と奮起できれば
自分なりに満足できるゴールまで辿り着けるかもしれません。

 

老子によれば、天はえこひいきなどしないもの。
太陽や天の神(が本当に存在するかどうかは置いておいて…)は、
地上の全てに対して平等の立場であり、
私たち人間を含めた万物を、絶対的に“公平”“中立”な目で見守っています。

 

そんな“天の在り方”について説いているのが、次の言葉です。

 

「天道無親、常与善人」
(天道は親なし、常に善人に与す。)

 

天の道にえこひいきなどはなく、常に善人に味方しているものだよ。
だから、恨み言など言わずに、私利私欲に走らず、
天から与えられたものを大切にして“あるがまま”に生を楽しみなさい、と言うのです。

天は見ている!

子供の頃、
「隠れてこそこそと悪いことをしていても、天の神様はしっかり見ているゾ」
…と、両親や祖父母に戒められた記憶はないでしょうか?

 

実はその言葉、老子の教えに由来しているのかもしれません。
というのも、老子は次のような言葉を残しており、
「天は絶対的に中立で公平な立場で私たちを見守っている」と教えているからです。

 

「天網恢恢、疏而不失」
(天網恢恢、疏にして失わず)

 

天の網は広大で粗いが、どんな悪人も取り逃がすことはない。
つまり、隠れて悪いことをしても、天は必ず見ているんだよ、
そして、最後には善人に味方をするものなんだよ。
だから悪いことはするもんじゃないよ〜…ということですね。

 

悪いこと、というのは、凶悪な犯罪でない限り、
意外と人にはバレなかったりするものですが(笑)、
天は必ずそれを見ています。
その時には何らお咎めがなくても、
人生をトータルで見ると、必ずどこかで裁きを受けます。
その人自身が裁かれることがなくとも、
長い目で見れば子孫に悪影響がふりかかってくるかもしれません。

 

究極的には、もし「来世」というものが本当にあるのだとすれば、
現世での悪事の“ツケ”を来世で払うことになる可能性も…。

 

天は、あなたの行いを全て見ています。
ちょっと気の緩みから悪いことに手を染めてしまいそうになったら、
どうか老子の言葉を思い出して踏みとどまってください。

天から与えられたものを素直に受け入れよ

万物の根源、「道」に従った生き方を理想としていた老子は、
「全てのお手本は自然界にある」と考えていました。
それがよく表れているのが、次の言葉です。

 

「人法地、地法天、天法道、道法自然」
(人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る)

 

人は大地を模範とし、大地は天を模範とし、
天は道を模範とし、道はおのずからあるべき姿に従う。

 

つまり、人は「大地」を模範にして生きるのが理想であり、
それが、ひいては天や道に従う生き方につながるというわけです。

 

テクノロジーの恩恵を受けて、なんでもかんでも
“快適”“便利”“効率”を優先してきた私たちにとっては、
あるがままの自然に任せた無為自然な生き方は難しいかもしれません。

 

しかし、試しに、「ああしよう」「こうしよう」「ああしなければ」「こうしたい」
「こうでなければ」「ああすればよかった」「こうじゃなくちゃ」
…といった自分の中のルールやこだわり、しがらみ、欲にとらわれた思考を
思い切って全てシャットダウンしてみてください。

 

ただただ、目の前のもの、
天から授かった命、役割、出来事をあるがままに受け入れる…。
そこに自分の欲求(や雑念)を介在させず、
天のなすがままに身をゆだねることができると、
「ああ、そうなんだ」「そうか、自分に与えられたことはこれなんだ」
「こうすれば良いんだな」
…不思議なほど素直に、ストレートに、物事を受け入れられるようになります。